【SDGs】渋沢栄一考 「逆境とは何か」

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 池江璃花子さん(20)の出場が決まった、東京オリンピック。7月23日の開幕に向けて今、聖火ランナーが列島を駆け巡っている。91年の生涯を「合本主義」で貫いた渋沢栄一(1840-1931 )も、大河ドラマや新1万円札で話題を集めている。2つのウエーブ(波)から、SDGsを軸にして「逆境とは何か」を考える。

聖火リレーの水素トーチ

 聖火リレーは、2021年3月25日に始まった。その初日、福島原発の被災地、帰還困難地域が大半を占める福島県浪江町のコースで、五輪史上初めて水素を燃料としたトーチが使われた。
 日本政府は「2050(令和32)年、脱炭素社会の実現」を宣言し、年間約12億1000万㌧にのぼる二酸化炭素(CO2)などの温室効果ガスの排出量を2050年には実質ゼロにすると表明している。CO2を排出しない水素の活用は、SDGsの地球環境を守る目標にも通じる。

池江璃花子さん(4月10日夜、NHKスペシャルより)

赤ちゃん、そして末代まで

 国際連合は2015年9月、「地球上のだれ一人として取り残さない」を理念としたSDGs(持続可能な開発目標、Sustainable Development Goals)を全会一致で採択した。  2030年を年限とする17の目標(なりたい姿)を決めて、その下に169のターゲット(具体的な目標)と232の指標を定めた。「持続可能な開発」の意味するところは、何か。それは、日本国憲法第11条に示された、条文からもうかがえる。

国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる

「持続可能な」は、憲法第11条でいうところの「将来の国民」、つまり、これから生まれてくる赤ちゃんの世代をも見据えて、安心して暮らせる社会をつくり、持続(リレー)していく、末代までも、ということだ。

91年の生涯

 利益を第一目的としてではなく、社会に役立つことを目的に会社を興す人。それが、社会起業家、ソーシャル(Social=社会)・アントレプレナー(Entrepreneur=起業家)だ。江戸から昭和までを生き抜いた渋沢の91年の生涯は、500の企業を設立しながら600の社会事業を手掛けた、まさに社会起業家の軌跡だった。渋沢は、今で言う「SDGsの理念や目標」を、その時代時代に鋭く読み取って起業し、社会事業を実践していった。

2つの逆境

 今、足元はコロナ禍だ。私たちは逆境にある。それだけでない。地球環境の危機も、大変な逆境だ。(孫の孫)の渋澤健さん(60)は、渋沢栄一の著した『論語と』を引いて、次のように話した。

「<大丈夫の試金石>という項に、逆境には、自然的な逆境と人為的な逆境がある。自然的な逆境においては、やるべきことをきちんとやって、天に任すしかない。コロナ禍は、自然的な逆境。手を洗って3密を避けて、ソーシャルディスタンスをとって…となる」

 一方、人為的な逆境では、「こうしたい、ああしたいと、そのような気持ちを常に持つべきだ。めざしているところを持つべきだ」と話した。地球環境の危機は、大気汚染、温暖化、どれを取ってみても人為的な逆境だ。だから、SDGsをつくり、「なりたい姿」を17の目標に定めた、というわけだ。

ベクトルをたてろ

 渋澤健さんは、続けた。
 「多くの場合、できるか、できないかの物差しであきらめてしまう。時間がないからできない、しがらみがあるからできない。そうではなくて、こうしたい、ああしたい、やりたいベクトルさえたてれば、迷いながらも、いずれ、できるようにシフトしていく。大事なことは、一人ひとりの想いを、自分ごととして感じているか。一人ひとりの、こうしたい、ああしたい、のベクトルがたち、それをみんなが自分ごと、としてとらえると、足し算、掛け算になる。合本主義ですね。ぜひ、未来の社会を拓くベクトルをたててほしい」

花のパリ

 日本選手権で4冠を果たした池江さんは、「優勝できるとは、思っていなかった。東京五輪ではなく、2024年のパリ五輪が目標だった」と話した。
 筋力が衰えた。体重は18㌔も減った。「死にたい」と母親に話したこともあったと、4月10日夜のNHKスペシャルで打ち明けた。今でも病院に通っている。
 それでも言った。
 「もう病気には、なりません。(その)自信はあります。プレッシャーになっていたみなさんの応援も、今ではすべて力になります。応援してください」
 逆境が、「新しい池江璃花子」を生み出した。東京のその先、パリに続く、確かなベクトルがたっている。逆境は、新境地への入口だった。

知っておきたいSDGsあれこれ

1 日本人の想い

SDGsの「持続可能な開発」という概念には、日本人の想いがつまっていた。大来佐武郎(1914-1993)。池田勇人内閣の時に、所得倍増計画をまとめ、大平正芳内閣で外務大臣を務めた国際的なエコノミストだ。1984年、大来が、世界の科学者や経済学者が集まるローマ・クラブのメンバーとして動いて国連に提言し、「環境と開発に関する世界委員会」ができた。委員会は、1987年に報告書「われら共通の未来」をまとめ、その中で「持続可能な開発」という概念を、初めて打ち出した。それから21年後の2015年、大来の思いは、SDGsに結実した。

2 未来を起点につくられた

SDGsの17の目標は、最初に「未来のなりたい姿」を描いて、そこを起点に現在までを逆走しながら解決の道筋をつける思考方法(バック・キャスティング)でつくられている。私たちが慣れている、現状から未来を描く思考(フォー・キャスティング)とは真逆だ。従来の思考では、往々にして「できない」要素を排除して、達成できやすい範囲の目標を設定してしまう。一方、バック・キャスティングは、「未来のできた」を前提に考えるので、そこに至る過程の「できない」があっても、「できる」として計画する。きわめてチャレンジングな目標設定のプロセスなのだ。

3 地球はひとつ

SDGsの基盤になる、「地球はひとつ」という考え方は、いつごろから、どのようにして生まれたのか。1968年12月24日にアメリカの宇宙船アポロ8号が、人類初となる有人月周回飛行に成功する。この時、宇宙飛行士が宇宙船から「日の出」ならぬ「地球の出」を撮影、写真が送られてきた。その画像を見た世界中の人々が、「地球は無限大の存在ではなく、小さな星のひとつ。みんなで守っていかなければ」という感覚を持った。「史上最も影響力のある環境写真」といわれる所以だ。

4 宇宙船地球号

米国の思想家、バック・ミンスター・フラーが1963年に著した「宇宙船地球号操縦マニュアル」で有名になったが、「地球の出」(写真右)から1年半後の1971年春の最初のアースデイで、国連のウ・タント事務総長(当時)が語った言葉が印象的だ。「これから毎年、平和で喜びに満ちたアースデイだけが、我々の美しい宇宙船地球号に来るように。地球号が温かくて壊れやすい生物という貨物と共に回転し、激寒の宇宙をめぐり続ける限り…」。

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